SSブログ

ドイツ国立ミュンヘン音楽・演劇大学 ~ 永見隆幸ヨーロッパを行く Hochschule für Musik und Theater München [永見隆幸 海外]



永見隆幸先生が ドイツ国立ミュンヘン音楽・演劇大学 Hochschule für Musik und Theater München を訪問されました。



tak hochschule für musik münchen gebäudeinnere.JPG
ドイツ国立ミュンヘン音楽・演劇大学の永見先生





ドイツ国立ミュンヘン音楽・演劇大学 Hochschule für Musik und Theater München = University of Music and Performing Arts Munich は、1846年(江戸時代 弘化3年頃)に バイエルン王立音楽アカデミー として発足し、1998年=平成10年より現在の正式名称になりました。日本では、一般に、ミュンヘン音楽大学と呼ばれます。





gasteig.jpg
複合文化施設ガスタイク Gasteig

ガスタイク は、1985年=昭和60年にオープンした、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団が本拠を置くカルチャー・センターで、授業がこちらで行われることもあります。





初代学長は、かの ハンス・フォン・ビューロー Hans von Bülow。



Hans Guido Freiherr von Bülow.jpg
ハンス・ギードー・フォン・ビューロー男爵
Hans Guido Freiherr von Bülow
ドイツの指揮者、ピアニスト、作曲家。


1830年(江戸時代 文政13年頃)1月8日、ドイツのドレスデンに生れる。ビュ-ロ-家の出自は、メクレンブルクの貴族。

1851年(江戸時代 嘉永3年頃)~ 1853年(江戸時代 嘉永5年頃)に ピアニストのフランツ・リストに師事。その後、ザンクト・ガーレン劇場の指揮者に就任。

1855年(江戸時代 嘉永7年頃)~ 1864年(江戸時代 文久3年頃)は、主にベルリンでピアニストや指揮者として活躍、ドイツやロシアで知られる存在になる。

1857年(江戸時代 安政3年頃)、リストの娘コジマと結婚。(後に、コジマはビューローの許を去り、リヒャルト・ヴァグナーと結ばれる。)

1864年(江戸時代 文久3年頃)~ 1877年=明治10年、ミュンヘン宮廷歌劇場指揮者を務める。

1867年(江戸時代 慶応2年頃)~ 1869年(明治元年頃)、バイエルン宮廷歌劇場総監督を務める。

1875年=明治8年 ~ 1876年=明治9年、渡米、チャイコフスキー『ピアノ協奏曲第1番』世界初演をはじめ、139回のコンサートに出演。

1878年=明治11年 ~ 1880年=明治13年、ハノーファー宮廷歌劇場楽長を務める。

1880年=明治13年 ~ 1885年=明治18年、マイニンゲン宮廷管弦楽団初代音楽監督を務め、作曲家リヒャルト・シュトラウスを見出して助手にする。

1882年=明治15年、女優マリー・シャンツェル Marie Schanzer von Bülow と再婚した。

1887年=明治20年 ~ 1892年=明治25年、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の初代常任指揮者を務める。

1892年=明治25年、慢性の頭痛が原因でベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者を辞任。

1894年=明治27年1月、転地療養を医師に勧められる。2月7日、ハンブルクから暖かいエジプトに移住。2月8日、脳卒中の発作で倒れる。2月12日、カイロのホテルにて客死。遺志によりハンブルグに遺体が埋葬された。享年64歳。





hans von bülow grab.jpg
ハンス・フォン・ビューローが眠る世界最大の墓地オールスドルフ Friedhof Ohlsdorf



Marie Schanzer von Bülow.jpg
ビューローの胸像とマリー・シャンツェル・フォン・ビューロー夫人 Marie Schanzer von Bülow





ビューローは、ピアニストとして、リストやショパン以上に評価されることがありました。
リストのピアノソナタロ短調やハンガリー幻想曲の初演に携ったのは、ハンス・フォン・ビューローです。
チャイコフスキーは、ニコライ・ルビンシュタインが演奏不能と評した『ピアノ協奏曲第1番』をビューローに献呈、ボストンで世界初演を行いました。
また、ヴァグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』や『ニュルンベルクのマイスタージンガー』初演の指揮者を務めています。
ピアニストとして正確無比な知性派と言われましたが、指揮者としては、自由闊達な演奏を行ったらしく、ヴァインガルトナーらから批判を受けることもあったようです。





hans von bülow.jpg
若き日のハンス・フォン・ビューローの肖像画





ミュンヘン音楽・演劇大学は、元NSミュンヘン総統官邸 NSDAP München Führerbau で、隣接してNS帝国党本部 NSDAP-Reichsparteizentrale「褐色館 Braunes Haus」がありました。当時の官邸が、現在も校舎として、そのまま使用されています。(NSDAP=NS:ナチス)



münchen braunes haus.jpg
NSDAP帝国党本部「褐色館 Braunes Haus」

褐色館の跡地には、2015年=平成27年、ミュンヘンNS資料センター NS-Dokumentationszentrum München が建てられました。(NSDAP=NS:ナチス)

Hochschule für Musik und Theater München & NS-Dokumentationszentrum München.jpg
左:ドイツ国立ミュンヘン音楽・演劇大学
Hochschule für Musik und Theater München
右:ミュンヘンNS資料センター
NS-Dokumentationszentrum München

München Führerbau u Braunes Haus.jpg
左:ミュンヘン総統官邸 München Führerbau
右:褐色館 Braunes Haus
中央:栄誉神殿 Ehrentempel

chamberlain daladier hitler mussolini münchner abkommen.jpg
総統官邸にて 左から:チェンバレン ダラディエ ヒトラー ムッソリーニ



1938年=昭和13年、この建物に、ドイツのアドルフ・ヒトラー、イタリアのベニート・ムッソリーニ、イギリスのネヴィル・チェンバレン、フランスのエドゥアール・ダラディエら、各国首脳が集ってミュンヘン会談が開かれ、悪名高きミュンヘン協定 Münchner Abkommen=Munich Agreement が結ばれました。





Hochschule für Musik und Theater München.jpg
ドイツ国立ミュンヘン音楽・演劇大学の外観





ミュンヘン音楽大学の出身者には、作曲家のカール・オルフ、指揮者のヘルマン・アーベントロート、指揮者のオイゲン・ヨッフム、指揮者のヴォルフガング・ザヴァリッシュ、指揮者のラファエル・フリューベック・デ・ブルゴス、指揮者のギュンター・ヴァント、指揮者のハインリヒ・ホルライザー、指揮者のハンス=マルティン・シュナイト、指揮者のフランツ・ヴェルザー=メスト、ピアニストのゲルハルト・オピッツ、バス・バリトン歌手のハンス・ホッター、オペラ歌手のヨーゼフ・グラインドルら、錚々たる音楽家が名を連ねます。





Hochschule für Musik München.jpg
Das Gebäudeinnere





tak hochschule für musik münchen.JPG





永見隆幸の最新プロフィールはコチラ ♪
 ↓
http://merry-uta.blog.so-net.ne.jp/2016-12-11
 ↑
This is Takayuki NAGAMI!


永見隆幸 オフィシャル・ウェブサイト ♬
 ↓
http://www.nagamitakayuki.com/
 ↑
NAGAMI Takayuki official website ♬


ディライトフル・グループ HP
 ↓
http://www.delightful-group.com/
 ↑
Delightful Group HP


メリー・アーティスツ・カンパニー
オフィシャル・ウェブサイト ♬
 ↓
http://www.merry-artists-company.com/
 ↑
Merry Artists Company official website ♬


ザ・ディライトフル・カンパニー社長ご挨拶
 ↓
https://merry2.blog.so-net.ne.jp/2018-01-28
 ↑
TDC president greetings


メリーのブログ管理人ご挨拶
 ↓
http://merry2.blog.so-net.ne.jp/2018-01-30
 ↑
MAC Website Manager

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。