旅館 柊家 永見隆幸 訪問 京都 麩屋町 [永見隆幸先生information]
音楽家、著作家、舞台ディレクターの永見隆幸先生が、京都 麩屋町にある旅館 柊家 ひいらぎや に滞在なさいました ♬
永見先生のホテル暮しは よく知られていますが、舞台人として、アメリカ、ヨーロッパ、東京、名古屋、京都と、世界を駆巡る先生にとって、旅館やホテル暮らし以外の選択肢は、無いのかもしれません!
柊家六代目女将 西村明美さん(右)永見隆幸先生(左)
撮影のため一時的にマスクを外しています。
旅館 柊家 外観
柊家の入口に佇む 永見先生
塀の周囲に廻らされる駒寄せの柵
柊家の本館は木造二階建の数寄屋造、新館は和モダンな鉄筋三階建。
京野菜など四季折々の新鮮な旬の素材を厳選、腕によりをかけた京懐石も味わえます。
京都老舗旅館御三家の筆頭と呼ぶ向きもある柊家!
旅館 柊家 と看板にあります。柊家旅館ではないのですね。元々は柊屋だったらしいという話もありますが、柊屋は誤記。「屋」ではなく「家」です。
仁孝天皇 徳川家斉の文政元年=1818年、福井から京に上った初代庄五郎が庄屋として京都に居を構え、運送業や鯖街道を下って入って来る魚を扱う海産物商を始めたのが柊家の始まりだそうです。
左京区にあって正式には賀茂御祖神社と称される世界遺産の下鴨神社、その境内にある比良木神社が柊家という屋号の由来です。邪気を祓う柊の木が自生する比良木神社に、初代庄五郎が深く帰依したのだとか。
二代目庄五郎を名乗った定次郎は、柊家政貫と号すほど、本業よりも刀の鍔目貫 つばめぬき の技に長じていました。街道沿いに店があって仲間の商人の求めに応じて宿も営んでいたので、孝明天皇 徳川家茂の文久元年=1864年、東海道の終点に位置する三条の地で旅籠を本業にしました。幕末には維新の志士が泊り、明治になってからは大臣が定宿にしていたそうです。
三代目庄五郎の頃になると、明治政府の要人は言うまでもなく、皇族、公家、華族、文人墨客にも愛されるようになりました。大正天皇の即位式が京都で行われた折には、大臣が 挙 こぞ って柊家を利用したそうです。第一次世界大戦中には、東郷平八郎元帥をはじめ、軍人の定宿としても繁盛していたのだとか。
柊家の宿泊客には、政財界はもとより、川端康成、三島由紀夫、夏目漱石、正岡子規、宇野千代、林芙美子ら、各界の著名人が名を連ねています。特に、川端康成と三島由紀夫は、よく利用していたらしく、柊家が別宅と言われるほどでした。海外からの来訪者も、各国の王族、政財界の重鎮、チャーリー・チャップリンやアラン・ドロンら、枚挙に暇 いとま がありません。
玄関から見る柊家の入口
往時は人力車が出入りしていたので広々とした間口
永見先生に伺ったところ、これは餅花 もちばな という正月や小正月に飾る縁起物だそうです。白膠木 ぬるで 榎 えのき 柳などに小さく切った紅白の餅や団子を挿すのだとか。その年の、五穀豊穣、商売繁盛、家内安全などを祈念して 拵 こしら えます。左義長 さぎちょう や どんど焼きと称される小正月の火祭りに焼いて食べると無病息災でいられるという言伝えもあるそうです。
こういう 設 しつら えが 堪 たま らないと喜ばれる 永見先生
玄関
重野成斎 しげの せいさい の書「來者如歸 らいしゃにょき」
来 きた る者 帰るが如し。訪れる人が我が家に帰って来たように寛 くつろ ぐことの出来る持成 もてな しを心掛けていらっしゃるそうです。
重野安繹 しげの やすつぐ
文政10年10月6日=1827年11月24日~明治43年=1910年12月6日 享年83歳
薩摩藩、鹿児島県出身。
号は、成斎 せいさい 曙戒軒鞭 しょかいけんべん。字は子徳。通称は厚之丞。
漢学者。歴史学者。日本最初の文学博士。私塾「成達書院」開校。太政官正院修史館館長。帝国学士院会員。帝国大学文科大学教授。公益財団法人「史学会」初代会長。東京学士会院会員。勅選貴族院議員。錦鶏間祗候 きんけいのましこう。
著書に、『赤穂義士実話』『稿本国史眼』『教育勅語衍義』『帝国史談』『支那疆域沿革図』『成斎文集』『大日本維新史』『万国史綱目』『国史総覧稿』ほか。
紅白梅盆栽寄植
開運招福の縁起物「俵熨斗 たわらのし」。これも永見先生に伺うまで知りませんでした。俵熨斗は、米俵を熨斗 のし で拵 こしら えた物だそうです。縁起のよい奇数の三ツ俵に稲飾りが添えられています。米俵は、五穀豊穣つまり豊かな実りの象徴で、それを重ねて「家内安全」「商売繁盛」を祈念するものなのだとか。京都伝統の正月飾で、床の間や玄関先、お茶席などにも飾られるそうです。
干支の壬 みずのえ 寅年に因んだ 虎の置物
帳場
季節を感じさせる日本文化の 粋 すい や 柊家独特の意匠を楽しまれる永見先生
応接間
彫刻家の平櫛田中 ひらくし でんちゅう も泊まったという本館一階にある部屋
平櫛田中 ひらくし でんちゅう
明治5年1月15日=1872年2月23日~昭和54年=1979年12月30日
彫刻家。岡山県井原市出身。旧姓、田中。本名、倬太郎 たくたろう。
写実的な作風で、高村光雲、荻原碌山、朝倉文夫などと並び、近代日本を代表する彫刻家の一人。
代表作に国立近代美術館所蔵の『鏡獅子』、次いで『烏有 うゆう 先生』『転生』『五浦釣人 ごほちょうじん』などが知られている。
明治26年=1893年 人形師 中谷省古に弟子入りして木彫の手ほどきを受ける。
明治34年=1901年 日本美術協会美術展に『童子歌君が代』出品、銀牌受賞。
明治35年=1902年 三々会 会員
明治35年=1905年 東京彫工会第20回彫刻競技会に『太郎歓』出品、金牌受賞。
明治40年=1907年 文部省第1回美術展(文展)に『姉ごごろ』出品、入選。/日本彫刻会 結成
明治41年=1908年 日本彫刻会第1回展に『活人箭』出品。岡倉天心の推奨を受ける。
大正3年=1914年 日本美術院再興記念展覧会に『禾山笑』等4点出品、同人に推挙される。
大正11年=1922年 横山大観、下村観山、木村武山の尽力により、上野桜木町に居を構える。
昭和5年=1930年 日本美術院の経営者に加わる。第17回院展に『五浦釣人』出品。
昭和12年=1937年 帝国芸術院会員
昭和17年=1942年 第2回野間美術賞 受賞
昭和19年=1944年 帝室技芸員/東京美術学校(東京藝術大学)教授
昭和26年=1951年 紺綬褒章
昭和26年=1954年 文化功労者 顕彰
昭和33年=1958年 畢生の大作「鏡獅子」完成/日本美術院理事/井原市名誉市民
昭和36年=1961年 東京都台東区名誉区民
昭和37年=1962年 文化勲章受章
昭和40年=1965年 東京藝術大学名誉教授/福山市名誉市民
昭和41年=1966年 東京藝術大学付属芸術資料館に田中記念室創設
昭和44年=1969年 井原市立田中美術館開館
昭和46年=1971年 帝国ホテルにて百寿祝賀会/岡山県井原市 平櫛田中賞創設
昭和47年=1972年 小平市名誉市民
昭和48年=1973年 東京国立近代美術館にて国内現代作家初の個展「平櫛田中展」開催
昭和54年=1979年 永眠 享年108歳
昭和59年=1984年 小平市平櫛田中彫刻美術館開館
平櫛田中語録
・今日もお仕事。おまんまうまいよ。びんぼうごくらく。ながいきするよ。
・不老。六十七十は鼻たれ小僧。男ざかりは百から百から。わしもこれからこれから。
・人間いたずらに多事。人生いたずらに年をとる。いまやらねばいつできる。 わしがやらねばたれがやる。
・実践実践また実践。挑戦挑戦また挑戦。修練修練また修練。やってやれないことはない。やらずにできるわけがない。
・こだわるな こだわるな。人間本来 住むところなし。どこに住んでも心は一つ。仕事ができればそれでよい。
・悲しいときには泣くがよい。辛いときにも泣くがよい。涙流して耐えねばならぬ。耐えた心がやがて薬になる。
・私の仕事は ていねいです。
天寒松色間は 盛唐の詩人 高適による五言律詩『入昌松東界山行』の 頸聯 けいれん 第六句
鳥道幾登頓
馬蹄無暫閑
崎嶇出長阪
合沓猶前山
石激水流處
天寒松色間
王程應未盡
且莫顧刀環
この額を見て直ぐに 高適『入昌松東界山行』の「天寒松色間」と お判りになった永見先生。単に博識というだけでなく、鋭い感性や深い見識や卓抜な洞察力をお持ちなので、造詣が深いとしか申し上げようがありません。
寛 くつろ がれる 永見先生
お薄と 柊家特撰 京菓子司 加賀屋清和 かがやきよかず「朧月 ろうげつ」
焙 ほう じ茶も、汲出 くみだし を、茶托ではなく、蓋付の茶台に載せて供せられます。
汲出 くみだし とは何か永見先生に伺ったところ、来客用の湯呑茶碗を指して言うのだそうです。普段使いの湯呑とは区別されるのだとか。
丹念に手入れされた坪庭を愛 め でる 永見先生
柊家の坪庭は、無作為の空気が素晴らしく、出しゃばらず これ見よがしではない美しさに品格を感じると、永見先生 激賞。
大広間入口
晩御飯をいただく場所の選択肢を幾つか提示してくださったそうですが、この日の先生は大広間をチョイスされました。
大広間の舞台 竹林のイメージ
芸妓さんや舞妓さんが踊りを披露する際にも、この舞台が使われるそうです。
全く柱が無く広々とし、京都の景色を写した植栽が囲む開放的な空間を楽しむことが出来ます。
放射線状の雪吊 ゆきづり のような構造体が天井を支えているのだとか。
今日は 何と 大広間を 永見先生が独占!
永見先生に柊家の感想を伺おうと思ったのですが、川端康成が柊家について書いたものがあり、自分の感想なんぞ屋上屋を架すことになるので遠慮したいと仰 おっしゃ います。そこで先生が仰る川端康成の文章を載せることに致しました!
京都ではいつも柊家に泊まって、あの柊の葉の模様の夜具にもなじみが深い。
京に着いた夜、染分けのやはらかい柊模様の掛蒲団に、女中さんが白い清潔なおほいをかけるのを見てゐると、なじみの宿に安心する。遠い旅の歸りに京へ立寄った時はなほさらである。柊の模様は夜具やゆかたばかりでなく、湯呑や飯茶碗などの瀬戸物にも、みだれ箱や屑入れなどにも、ついてゐるのだが、その柊は目立たない。またそれらの調度は、十年、二十年、戦時も戦後も変らない。ずいぶん多く用意してあったとみへる。
この目立たないことと変らないことは、古い都の柊家のいいところだ。昔から格はあっても、ものものしくはなかった。京都は昔から宿屋がよくて、旅客を親しく落ちつかせたものだが、それも変りつつある。
柊家の万事控目が珍しく思へるほどだ。
京のしぐれのころ、また梅雨どきにも、柊家に座って雨を見たり聞いたりしてゐると、なつかしい日本の静けさがある。私の家内なども柊家の清潔な槇の木目の湯船をよくなつかしがる。わたしは旅が好きだし、宿屋で書きものをする慣はしだが、柊家ほど思ひ出の多い宿はない。
京の名所や古美術なども、この宿を根にして見歩いた。浦上玉堂の「凍雲篩雪」を入手したのも、この宿でめぐりあってだ。政治家や財界人ばかりではなく、画家や学者や文学者にも、昔から親しまれた宿として、柊家は古都のひとつの象徴であろう。私は京阪の他の宿で泊まった後でも柊家へ落ち着きにゆき、中国九州の旅の行き帰りにも柊家に寄って休む。玄関に入ると「耒者如帰」の額が目につくが、私にはさうである。
川端康成
文章に添えられた自署
雨露さえ凌げれば 泊まるのは どこでも構いませんと、永見先生は 仰 おっしゃ います。しかし、先生を招聘する方が そういう訳には行かないのではないでしょうか。
柊家の 肩肘張らぬ過不足ない 持成 もてな しが とても気に入っていらっしゃるご様子の永見先生。素晴らしい設えが さり気なく全体の中に調和しており、奇を 衒 てら ったところが全くなく、総て自然に感じられるのが嬉しいと語っておられました。
いずれにせよ 永見先生は 品位と風格のある場所や物が 本当に よくお似合いになります!
永見隆幸の最新プロフィールはコチラ ♪
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This is Takayuki NAGAMI
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