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柊家 旅館 京都 麩屋町 永見隆幸 再訪 令和五年一月 その弐 [永見隆幸先生information]



音楽家、著作家、舞台ディレクター、メリー・アーティスツ・カンパニー芸術監督、ザ・ディライトフル・カンパニー芸術監督の永見隆幸先生が、京都 麩屋町にある旅館 柊家 ひいらぎや を再訪されました。





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永見隆幸先生(右)柊家六代目女将 西村明美さん(左)柊家 玄関にて





永見先生のホテル暮しは よく知られています。
舞台人として、アメリカ、ヨーロッパ、日本と、世界を駆巡る先生には、旅館やホテル暮し以外の選択肢が無いのかもしれません。


言うまでもありませんが、多方面の芸術文化に造詣が深い永見先生のお話を基に、この記事を纏めました。


京都を代表する老舗旅館として知られる柊家は、川端康成、三島由紀夫、吉川英治、林芙美子、宇野千代らの文学者が贔屓 ひいき にし、若き日の夏目漱石も初めての京都旅行で泊ったそうです。





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次の間の化粧室


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部屋の入口 次の間





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本間





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床の間の前に着座される永見先生





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付書院


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硯箱





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欄間にも趣があると永見先生





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漆塗りの風呂場 ~ ステンドグラスも楽しめます。

浴槽は高野槇





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二階の階段前





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お出ましになる永見先生 柊家 玄関にて


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柊家の玄関には、重野成斎 しげの せいさい の書額「來者如歸 らいしゃにょき」が掛けられています。


きた る者 帰るが如し。
柊家の三代目が揮毫して戴いたのだとか。柊家では、訪れる人が我が家に帰って来たように寛 くつろ ぐことの出来る持成 もてな しを心掛けていらっしゃるそうです。



重野安繹 しげの やすつぐ
文政10年10月6日=1827年11月24日~明治43年=1910年12月6日 享年83歳
薩摩藩、鹿児島県出身。
号は、成斎 せいさい 曙戒軒鞭 しょかいけんべん。字は子徳。通称は厚之丞。
漢学者。歴史学者。日本最初の文学博士。私塾「成達書院」開校。太政官正院修史館館長。帝国学士院会員。帝国大学文科大学教授。公益財団法人「史学会」初代会長。東京学士会院会員。勅選貴族院議員。錦鶏間祗候 きんけいのましこう
著書に、『赤穂義士実話』『稿本国史眼』『教育勅語衍義』『帝国史談』『支那疆域沿革図』『成斎文集』『大日本維新史』『万国史綱目』『国史総覧稿』ほか。





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永見先生に伺ったところ、これは餅花 もちばな という正月や小正月に飾る縁起物だそうです。白膠木 ぬるで えのき 柳などに小さく切った紅白の餅や団子を挿すのだとか。その年の、五穀豊穣、商売繁盛、家内安全などを祈念して 拵 こしら えます。左義長 さぎちょう や どんど焼きと称される小正月の火祭りに焼いて食べると無病息災でいられるという言伝えもあるそうです。


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往時は入口から玄関まで人力車も出入していたので広々とした間口





柊家の本館は木造二階建の数寄屋造で、新館は現代的な和風の鉄筋三階建。

塀の周囲には駒寄せの柵が廻らされています。

京都 老舗旅館御三家 筆頭の呼声も高い柊家。

柊家は、昔、柊屋であったらしいという説もありますが、今は柊家。「屋」ではなく「家」です。

京野菜など四季折々の新鮮な旬の素材を厳選、腕によりをかけた京懐石も味わうことが出来ます。





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柊家の看板をご覧になる永見先生


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文政元年(第百二十代 仁孝天皇/江戸幕府第十一代征夷大将軍 徳川家斉)=1818年、福井から京に上った初代庄五郎が庄屋として京都に居を構え、運送業や鯖街道を下って入って来る魚を扱う海産物商を始めたのが柊家の始まりだそうです。

左京区にあって正式には賀茂御祖神社と称される世界遺産の下鴨神社、その境内にある比良木神社が柊家という屋号の由来です。邪気を祓う柊の木が自生する比良木神社に、初代庄五郎が深く帰依したのだとか。

二代目庄五郎を名乗った定次郎は、柊家政貫と号すほど、本業よりも刀の鍔 つば 目貫 めぬき の技に長じていました。街道沿いに店があって仲間の商人の求めに応じて宿も営んでいたので、文久元年(第百二十一代 孝明天皇/江戸幕府第十四代征夷大将軍 徳川家茂)=1864年、東海道の終点に位置する三条の地で旅籠を本業にしました。幕末には維新の志士が泊り、明治になってからは各大臣が定宿にしていたそうです。

三代目庄五郎の頃になると、明治政府の要人は言うまでもなく、皇族、公家、華族、文人墨客にも愛されるようになりました。大正天皇の即位式が京都で行われた折には、大臣が 挙 こぞ って柊家を利用したそうです。第一次世界大戦中には、東郷平八郎元帥をはじめ、軍人の定宿としても繁盛していたのだとか。

柊家の宿泊客には、政財界はもとより、川端康成、三島由紀夫、夏目漱石、正岡子規、宇野千代、林芙美子ら、各界の著名人が名を連ねています。特に、川端康成と三島由紀夫は、頻繁に利用していたらしく、柊家が別宅と言われるほどでした。海外からの来訪者も、各国の王族、政財界の重鎮、チャーリー・チャップリンや アラン・ドロンら、枚挙に暇 いとま がありません。





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ヴィキューナ Vicuna のオゥヴァー・コートも三つ揃も、天皇陛下のテイラーとして知られる服部晋さんが、永見先生のために仕立ててくださったものです。
ヴィキューナ Vicuna の ロング・コートとしては世界で一番丈の長いものかも知れないと、ある服飾専門家が指摘していました。永見先生の御意向で、ポケットをお付けにならず、ゆったりとしたカフもコートを一段と風格あるものしています。





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柊家の貸切風呂 浴室が二つあります。


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源定信『誠為寶』 

源定信とは、幕府世臣白河城主従四位下行左近衛権少将兼越中守源朝臣定信、即ち松平定信のこと。松平定信は、二十二、三歳の頃、田安家の家臣であった山本又三郎に狩野派の絵を学んだと伝えられる。
松平定信は、宝暦八年十二月二十七日=1759年1月25日、御三卿の田安徳川家の初代当主 徳川宗武の七男として江戸田安邸にて生れる。江戸時代後期の将軍補佐兼老中。久松松平定綱家第九代当主。江戸幕府第八代将軍 徳川吉宗の孫。幼名は賢丸、字は貞卿、号は旭峯、楽翁、風月翁、花月翁など。
安永三年=1774年、白河藩松平定邦の養子になる。安永四年閏十二月、従五位下上総介。天明三年=1783年 十月、陸奥白河十一万石 襲封、藩主となる。従四位下越中守。天明の大飢饉を切抜け、藩治の実効をあげて諸大名の間に名声が高まる。天明七年=1787年 六月、御三家一門、将軍家斉の実父である一橋治済 ひとつばし はるさだ などの推挙により老中首座になり、侍従に任じ、寛政の改革を推進。
寛政五年=1793年 七月、老中ならびに将軍補佐役を辞職、左近衛権少将 さこのえごんのしょうしょう に昇任し、家格も溜間詰 たまりのまづめ に昇格。再び白河藩政に心を砕いた。
幼少より大塚孝綽 たかすえ に師事、十二歳で己の信条を記した『自教鑑 じきょうかがみ』を著したのをはじめ、二百部にも及ぶ著作を残した。誕生から老中辞職までの自叙伝『宇下人言 うげのひとこと』、政 まつりごと の基本を説いた『国本論』、雅文随筆『花月草紙』、自選和歌集『三草集』、古書画や古器物を摸写編集した『集古十種』などが著名。
近代日本経済の父と謳 うた われる渋沢栄一 しぶさわえいいち が、松平定信を厚く敬愛していた事もよく知られている。
文政十二年=1829年 五月十三日逝去。享年七十二歳。守国院殿崇運社天誉保徳楽翁大居士。墓所は江戸深川の霊巌寺。後に伊勢 桑名の照源寺に装束と歯骨を斂める。辞世「今更に 何か恨みむ 憂きことも 楽しきことも 見果てつる身は」。





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永見先生に風呂場の案内をしてくださった柊家の男衆





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ピカピカ ツルツルではなく、こういう古色を帯びた質感にこそ趣があると仰 おっしゃ る永見先生。


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天井の一枚板


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浴室内の壁が大理石で浴槽は檜。明治時代末期に制作されたステンドグラス作品『大原女の図』が飾られています。





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日本初のステンドグラス作家と謳 うた われる 小川三知 おがわ さんち の作品『大原女の図』


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小川三知 おがわ さんち
日本初のステンドグラス作家。

慶応三年五月二十九日=1867年7月1日、静岡藩医 小川清斎の次男として生れる。
慶応三年生れには、夏目漱石、森鴎外、正岡子規らがいる。
小川三知は、医者になるべく上京し、東京大学の前身である第一高等中学校に入学。しかし、絵画への思いを断ち切れず、東京美術学校が設立されると、明治二十三年=1890年、次弟の剣三郎に家督を譲り、一高を中途退学して東京藝術大学の前身である東京美術学校日本画科に入学、橋本雅邦に学んだ。
小川三知の東京美術学校同窓生には、横山大観、菱田春草、下村観山、板谷波山らがいる。
明治三十三年=1900年、単身アメリカへ渡ってシカゴ美術院に入学、日本画教師をしながら装飾美術科で学ぶ。
明治三十四年=1903年、農商務省実業研究生となり、4年間、輸出漆器のデザインの研究を委嘱される。
明治三十七年=1904年、米国セントルイスの万国博覧会にて、日本政府の日本工芸館の仕事に従事。
明治三十八年=1905年、アーティスティック・グラス・ペインティング社に見習工として入社、ステンドグラス制作の修業を開始する。その後、ディトンのディトン美術硝子工場、オハイオ州コロンバスのフォン・ゲレヒテン美術硝子工場、ニューヨークのピッツバーグ板硝子会社、ゴーラム製作会社、ピッツバーグのウィレットスタジオ、セントルイスのカンジニール会社などでステンドグラス製作技術を習得した。
明治四十四年年十一月三日、満を持して帰国。依頼された慶応大学図書館の大ステンドグラス製作のため、同年十一月二十三日、代々木山谷にアトリエを構える。
大正二年=1913年 二月、板谷波山に誘われてアトリエを田端に移転、その工房は「小川スツヂオ」と呼ばれた。小川三知は、この小川スツヂオから次々と名作を世に送りだして行く。
昭和三年=1928年10月24日逝去。享年六十三歳。





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ステンドグラスと対をなすように、金彩を用いた魚の陶板画、四方連作皿三枚が配 あしら われています。これは、昭和三十八年に、名工 六世 清水六兵衛 きよみずろくべえ が、四代目柊家主人の西村善三さんに寄贈した陶板画だそうです。





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こちらは屋形船のような漆塗の浴室


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質量ともに定評のある柊家の朝食





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紅茶を淹れていただいて大層御機嫌麗しい永見先生


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柊家 玄関にて 永見隆幸先生(右)柊家六代目女将 西村明美さん(左)





永見先生は、「柊家の『古色 こしょく』とは、『使い込まれた質感の輝き』なのであって、『手垢 てあか に 塗 まみ れた不潔さ』などとは全く無縁です。自分は、それをレトロ感覚とは解さず、ノスタルジックにも捉えません。柊家は、過去の遺物では断じて無く、今も息づく日本の文化です。柊家の『古色 こしょく』は、歴史と伝統が放つ艶消の光。そう考えるのです。」と仰 おっしゃ います。


そして、「川端康成の『格はあっても物々しくない』という言葉が柊家の本質を表して過不足ない」と付加えられました。





鋭い感性と卓越した審美眼をお持ちの永見先生でなければ理解出来ない柊家の世界があるに違いありません。
及ばずながら、少しでも先生に近づく事が出来るように精進しようと、改めて決意しました。





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柊家にまつわるエピソードを色々教えてくださる柊家六代目女将 西村明美さん(左)


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熱心に耳を傾ける永見先生(右)





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雨露さえ凌ぐ事が出来れば、泊るのは、どこでも構いませんと、永見先生は 仰 おっしゃ います。
しかし、先生を招聘 しょうへい する側の方々が、そういう訳には行かないと、然るべき宿を探してしまうのだとか。





柊家 旅館 永見隆幸 再訪
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令和五年一月 京都 麩屋町


柊家 旅館 永見隆幸 再訪
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令和四年八月 京都 麩屋町


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令和四年七月 京都 麩屋町


柊家 旅館 永見隆幸 再訪
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令和四年五月 京都 麩屋町


柊家 旅館 京都 麩屋町
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令和四年一月 永見隆幸 訪問


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