柊家 旅館 京都 麩屋町 永見隆幸 再訪 令和四年八月 [永見隆幸先生information]
音楽家、著作家、舞台ディレクター、メリー・アーティスツ・カンパニー芸術監督、ザ・ディライトフル・カンパニー芸術監督の永見隆幸先生が、京都 麩屋町にある旅館 柊家 ひいらぎや を再訪されました。
永見隆幸先生(左)柊家六代目女将 西村明美さん(右)
永見先生のホテル暮しは よく知られています。
舞台人として、アメリカ、ヨーロッパ、東京、名古屋、京都と、世界を駆巡る先生には、旅館やホテル暮し以外の選択肢が無いのかもしれません。
常の如く、多方面の芸術文化に造詣が深い永見先生のお話を基に、この記事を書き進めて参ります。
京都を代表する老舗旅館として知られる柊家は、川端康成、三島由紀夫、吉川英治、林芙美子、宇野千代らの文学者が贔屓 ひいき にし、若き日の夏目漱石も初めての京都旅行で泊りました。
柊家の本館は木造二階建の数寄屋造で新館はモダンな和風の鉄筋三階建
塀の周囲に廻らされているのは駒寄せの柵
京都 老舗旅館御三家 筆頭の呼声も高い柊家
柊家は、昔、柊屋であったらしいという説もありますが、今は柊家。「屋」ではなく「家」です。
京野菜など四季折々の新鮮な旬の素材を厳選、腕によりをかけた京懐石も味わうことが出来ます。
文政元年(第百二十代 仁孝天皇 江戸幕府第十一代征夷大将軍 徳川家斉)1818年、福井から京に上った初代庄五郎が庄屋として京都に居を構え、運送業や鯖街道を下って入って来る魚を扱う海産物商を始めたのが柊家の始まりだそうです。
左京区にあって正式には賀茂御祖神社と称される世界遺産の下鴨神社、その境内にある比良木神社が柊家という屋号の由来です。邪気を祓う柊の木が自生する比良木神社に、初代庄五郎が深く帰依したのだとか。
二代目庄五郎を名乗った定次郎は、柊家政貫と号すほど、本業よりも刀の鍔目貫 つばめぬき の技に長じていました。街道沿いに店があって仲間の商人の求めに応じて宿も営んでいたので、文久元年(第百二十一代 孝明天皇 江戸幕府第十四代征夷大将軍 徳川家茂)1864年、東海道の終点に位置する三条の地で旅籠を本業にしました。幕末には維新の志士が泊り、明治になってからは大臣が定宿にしていたそうです。
三代目庄五郎の頃になると、明治政府の要人は言うまでもなく、皇族、公家、華族、文人墨客にも愛されるようになりました。大正天皇の即位式が京都で行われた折には、大臣が 挙 こぞ って柊家を利用したそうです。第一次世界大戦中には、東郷平八郎元帥をはじめ、軍人の定宿としても繁盛していたのだとか。
柊家の宿泊客には、政財界はもとより、川端康成、三島由紀夫、夏目漱石、正岡子規、宇野千代、林芙美子ら、各界の著名人が名を連ねています。特に、川端康成と三島由紀夫は、頻繁に利用していたらしく、柊家が別宅と言われるほどでした。海外からの来訪者も、各国の王族、政財界の重鎮、チャーリー・チャップリンや アラン・ドロンら、枚挙に暇 いとま がありません。
柊家の門前に佇む永見先生
往時は人力車も出入して広々とした間口
永見先生は、「柊家の『古さ』とは、『使い込まれた質感の輝き』なのであって、『手垢 てあか に 塗 まみ れた不潔さ』などとは全く無縁です。自分は、それをレトロ感覚やノスタルジックにも捉えません。歴史と伝統が放つ艶消の光とでも表現すべきだろうと考えます。」と仰 おっしゃ っています。
柊家の玄関
重野成斎 しげの せいさい の書「來者如歸 らいしゃにょき」
来 きた る者 帰るが如し。
柊家の三代目が揮毫して戴いたのだとか。柊家では、訪れる人が我が家に帰って来たように寛 くつろ ぐことの出来る持成 もてな しを心掛けていらっしゃるそうです。
重野安繹 しげの やすつぐ
文政10年10月6日=1827年11月24日~明治43年=1910年12月6日 享年83歳
薩摩藩、鹿児島県出身。
号は、成斎 せいさい 曙戒軒鞭 しょかいけんべん。字は子徳。通称は厚之丞。
漢学者。歴史学者。日本最初の文学博士。私塾「成達書院」開校。太政官正院修史館館長。帝国学士院会員。帝国大学文科大学教授。公益財団法人「史学会」初代会長。東京学士会院会員。勅選貴族院議員。錦鶏間祗候 きんけいのましこう。
著書に、『赤穂義士実話』『稿本国史眼』『教育勅語衍義』『帝国史談』『支那疆域沿革図』『成斎文集』『大日本維新史』『万国史綱目』『国史総覧稿』ほか。
帳場の書額
帳場に活けてある柊
帳場の呼鈴 よびりん
石田亘の硝子作品
大広間の前にも掛けられている石田亘の硝子作品
喫煙室
何と喫煙室でも楽しめる坪庭
応接間の設 しつら え
柊家本館案内図
永見先生(左)のお泊りになるお部屋まで早速ご挨拶にお越しくださった柊家六代目女将 西村明美さん(右)
永見先生がこの日宿泊なさったのは16号室。川端康成が執筆する際に用いていた部屋だそうです。よく14号室にも逗留していたそうですが、一人の時は16号室に泊ることも多かったとか。
16号室の入口
内側から見た部屋の入口
入側 いりがわ にて 御着菓子 おつきがし=ウェルカム・スイーツ を召上る永見先生
永見先生は暫し入側にて庭の景色を楽しまれました。
柊家四代目女将の句碑
朧夜乃 おぼろよの 阿可 あか りが星 ほし う 愛宕山 あたごやま
座卓にて寛 くつろ がれる永見先生
先ず落款に目を留められた永見先生、「高幹 こうかん とあるのは竹内栖鳳 たけうち せいほう ではないか」と仰 おっしゃ います。右側に「栖鳳作」とあるようにも見えますが、確認したところ、確かに竹内栖鳳の支那山水に間違いないそうです。
落款でお判りになるところが、永見先生の永見先生たる所以 ゆえん と感服致しました。
貫名菘翁 ぬきな すうおう の書額「間資寿」
貫名菘翁
安永七年三月=1778年~文久三年五月六日=1863年6月21日
江戸時代後期における文人画家の巨匠とされ、就中 なかんずく 書は、幕末の三筆と謳 うた われる。
この部屋は殊 こと に静かで執筆には最適と仰 おっしゃ る永見先生
硯箱
入側 いりがわ
入側の鏡台
入側の天井
洗面所
風呂場の入口
高野槇 こうやまき の浴槽
風呂場のステンドグラス
然 そ う 斯 こ うする内、燈籠 とうろう に 灯 あかり が 点 とも ります。
この日は「庭を観ながら食事を摂りたい」と仰 おっしゃ り、先生は、お泊りになるお部屋の入側にて晩御飯をお召上りになりました。柊家の料理長は岩山泰久さんです。
先付
食前酒 招穂 京都梅酒
海老 自家製唐墨 長芋 枝豆
毛蟹 黄菊和 長芋 壬生菜
蓴菜 じゅんさい 酢
椀
鱧吉野 陸蓮根 おくら 椎茸 梅肉
造里 石垣 いしかげ 貝 烏賊 雲丹
造里 鮪 山葵
焼物
天然鮎塩焼 蓼酢 茗荷
玉蜀黍 銀杏 掻揚
凌 饂飩 うどん 海素麺 鮑 鬼下 おにおろし 生姜 喰出汁
肉 合鹿椀 ごうろくわん の如き大振の椀で供せられました。
和牛 松茸 温玉 葱
食事
白御飯 新潟魚沼産越光 こしひかり
鱧山椒焼
香物 こうのもの 水茄子 南瓜
留椀 赤出汁 湯葉 三葉 みつば
果物
檬果 まんごー 麝香葡萄 ますかっと
すっかり庭は夜の景色
今宵は鍵をお預けになって、先生は、夜の散歩へとお出かけになりました。
旅館柊家の看板
厄除けの護符として知られる 長刀鉾 なぎなたほこ の 粽 ちまき
蘇民将來子孫也 そみんしょうらいしそんなり とあります。
左上の表示板には、歴史的意匠建造物 京都市とあり、その下の表示板に、景観重要建造物 歴史的風致形成建造物 京都市と記されています。
ぶらぶら歩きを楽しまれた永見先生がお帰りになるとお茶が用意されていました。正 まさ しく「来者如歸」の心配りです。
爽やかな朝の庭
柊家の計らいで、朝食は別室にてお摂りになるそうです。
永見先生が朝食を召上るお部屋の入口
柊家本館25号室は、三島由紀夫お気に入りの33号室の真上に位置し、部屋の造りも33号室によく似ているのだとか。
次の間の鏡台
次の間の欄間
本間から見た次の間
本間の襖
立体的な盛上胡粉の手法を用いて描かれた扇
金箔は張替るものの扇は江戸時代の作品
東郷平八郎の書額「瑞氣滿堂」
東郷平八郎 とうごうへいはちろう
弘化四年十二月二十二日=1848年1月27日~昭和九年=1934年5月30日
明治三十六年=1903年12月、連合艦隊司令長官に任命される。翌1904年6月、大将に昇進。日露戦争の日本海海戦において、明治三十八年=1905年5月27日、ロシアのバルチック艦隊を撃滅、世界的名声を得、「東洋のネルソン提督」と称された。大正二年=1913年4月、元帥に昇進。大正三年=1914年4月東宮御学問所総裁に就任。大正15年=1926年、大勲位菊花章頸飾を受章。昭和九年=1934年5月29日、侯爵に陞爵 しょうしゃく。昭和九年=1934年5月30日、薨去 こうきょ。享年86歳。昭和九年=1934年6月5日、国葬が執行 とりおこな われた。
付書院
いつも柊家の料理は質量ともに満足させてくれると仰 おっしゃ る永見先生
湯豆腐の桶は 人間国宝 中川清司作
平野とうふ製の豆腐
湯波半老舗の湯葉
永見先生がお発ちになる前に冷やし飴を振舞ってくださいました。
御土産まで頂戴したそうです。
永見先生(左)を お見送りくださる柊家六代目女将の西村明美さん(右)
柊家のタオルに包 くる んでくださったのは…
飲料水を凍らせたもの
永見先生が仰 おっしゃ るには、「こうした配慮は、家族同然の心配りのように思います。柊家の玄関に掲げられている『來者如歸 らいしゃにょき』の精神、つまり、客人 まろうど がまるで我が家に帰って来たかのように感じる 飾らぬ持成 もてなし が、柊家では、至るところで実践されていると自分は思うのです。それは、川端康成の『昔から格はあっても、ものものしくはなかった。』という柊家評にも繋がるのではないでしょうか。」
柊家 旅館 永見隆幸 再訪
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令和四年七月 京都 麩屋町
柊家 旅館 永見隆幸 再訪
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令和四年五月 京都 麩屋町
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令和四年一月 永見隆幸 訪問
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